山崎ハウス工業社長■山崎又男[やまざきまたお]

山崎又男

[やまざきまたお]1941年秋田県生まれ。中学卒業と同時に地元秋田で大工修業を始める。1960年上京、さらに修業をつんだのち、縁あって埼玉県大宮市にて次男・三男と共に工務店設立に参加。以来数十年大宮市を基盤に数々の住宅を手掛ける。

1996年、独立し株式会社山崎ハウス工業を設立。現在に至る。

弊社が開設しましたホ−ムペ−ジをご覧頂きまして誠にありがとうこざいます。

皆様に楽しくご覧頂く為に多少肩のこらないような作りをしていますが、ここは少々まじめなお話をさせていただきます。ぜひ私の家造りに対する考え方をご覧頂きたいと考えますので何卒お付き合いして頂ければ幸いと思います。

私は、東北は秋田県の、とある山村で大工を営む家(父)の四男坊として生まれました。家族は男七人女二人の9人兄弟そして両親の計11人という大家族でした。大勢の家族の中で育った私の記憶の中には、太く大きな大黒柱とそこからはしる長大な梁にしっかり固まった「家」のイメ−ジが心に深く刻まれています。

大黒柱のすぐ近くには囲炉裏があり、その部屋が生活の中心でした。

その中で話し、笑い、怒り、怒られ、11人全ての顔をながめ、常に家族が全員で生活をしていました。したがってプライベ−トなどと言うものはかけらもありませんでしたし、誰一人として個室などなく、自分の自由な時間や空間がほしけれ外に出る、即ち早く独立する以外ありませんでした。

あの当時、余程裕福な家でない限り、まわり中ほとんど似たような家庭環境でしたので、さほど不満に感じた事はありませんでしたが、いつか一人前になって自分の城をもつときには各家族一人一人の部屋を設けて、個人の自由が確保された空間を作り、また海外特にアメリカのホ−ムドラマに出て来るよう、なLDK一体型で梁や柱など一切見せずクロスや塗装で美しく仕上られた洋風の家その様な夢を見、つつ又その様な家こそがこれからの「家」の形であると思っていました。

(私に限らず、私達世代の人間は多かれ少なかれその様な家に夢を抱いてあこがれていたと思います.その様な状況の中で、戦後の家造りが「本質を見落とした西洋風」の流れを軸にして家を造ってきた気がします。)

しかし、私の心の中には、私の生まれ育った家のスタイルが深く心に残っていたのか、常に家族がひとつになれる家の間取りを考えて造っていたのではないかと考えます。かれこれ約40年ほど家造りに関わってきましたが、その際、私は必ず家族全員が一つになれる部屋「リビング」に重点を置き間取りを考えてきました。

例えば、リビングを経由しなければ利用できない部屋をつくり、その部屋は毎日の生活に必要な部屋とする(水廻り・お風呂・トイレ・階段など)すると、嫌でも必ず皆が居る部屋を通過する事になります。玄関からリビングを通らなければ上がれない階段やお風呂などなど…。実際、私の自宅も1階に廊下は無く中心に広いリビングを設けそこを通過しなければ風呂やキッチン・ダイニングに行けないようになっていますし、間仕切りは建具で仕切り全て開けると1階が一つの部屋になっているような設計になっています。

ですから、2階には各家族の部屋があり、各自その部屋で寝起きする訳ですが、一日として、誰かが誰かの顔を見ない日はありませんでした。また子供達も休みの日には自然に1階のリビングにて一日をみんなで過ごし、広い空間でテレビを見ながらごろ寝をしたり、テ−ブルを使って卓球をしたり、各自が成人して独立するまでの間、常に家族の会話が飛び交う、にぎやかな家庭でした。

その為か娘が嫁ぐ際、両親への挨拶で「わたしはあの家が大好きでこれから離れて暮らさなくてはいけないと思うと、とてもさびしく残念で、もったいなくて、それだけが心残りです。」と語ってくれました。私はその後、娘の言葉の意味を考えてみましたが、やはり私の育ったあの家が、私という人間を育て、またその人間が心の奥底に漠然とある家の形に基き家を造った結果が家族のつながりと言う大切な心を造り上げた為、娘のあの言葉に繋がったのだろうと思っています。

家という物はただの箱ではいけません、そこに住む人の生活・暮らしを営む大切なステ−ジなのです、ですからその家そのものが家族の顔となって現れて来るものと考えます。

したがって家は家族と言う一つの集団を常に無意識に意識する生活が可能な間取りにしなくてはならないと思うのです。又、自然の素材をなるべく使用する事に心がけています。

人間は本来自然の一部であると考えます。木・土・石・紙・鉄などの自然素材を用いて造る家は今注目を浴びていますが、私もこの考え方を賛同しています。技術的に難しい所もありますが、極力、自然素材を生活の中心となるところに使用して、体にやさしい、素直な心を育てる住まい造りを目指しています

私は専門家ではないのであくまでも私が個人的に思うところでは、昔はその子供の家庭環境や、生活水準などの理由で非行に走り、本人も悪い事と自覚した上であえて犯罪行為を犯していました。したがってその行為には何らかの理由や反感があり、きちんと誠心誠意説明すれば納得し、やがては大人になり公正したものでした。しかし最近の子供は、大した理由も無くすぐにキレルと聞きます。なにか問題が生じると他人の責任にして自分自身の世界に閉じこもってやり過ごそうとします。

しかし、世の中がそれを許さないと突然、牙を向けるのです。ですから理由にならないような理由で簡単に人を殺したり、自由を奪ったり、といった重大犯罪を犯してしまうと思います。又、あまりにも個々の権利や自由を尊重する教育の為か、自分自身を何かとても偉大な存在だと勘違いしてしまっているのか、素直さが欠如していると感じます。

私は今まで数多くの若者を指導してきました、一人前になるまでに数多くの学びと数多くの我慢が必要なのですが、個々数年やはり我慢の足りない若者が多くなったと感じます。何か注意すると「はい!すいません」ではなく「でも、何々が」と言い訳の言葉が返ってきます。この事は最近の子供に限らず、世の中全般に言える事であり、我々建築関係者も該当する事かもしれません。(この事についての私の考えは又後で述べます)

私は大勢の家族の中で育ちました。その為いつも誰かが私の廻りに居ました。したがって私自身必然的に我慢する事が数多くありましたし、集団で生活する最低のル−ルを自然に家族から学び取ったし、共に生きる相手の心を読み取り、相手の気持ちになって物事を考え行動する事を学んだと思います。

私の父と母は特別偉大な人でもなく、私達に特別贅沢な事をしてくれた訳でもありません。実際は、明日の米にも事欠く日があるくらい、毎日を生きることに必死な生活でした。それでも父と母は親として堂々としていましたし、私達も決して両親を心の底から恨んだり軽蔑したりしたことはありませんでした。

どちらかと言えば、一日でも早く一人前の人になって家族の負担を軽くし、漠然とではありますが、長男以外はいつまでも家に居てはいけないと感じていたのかもしれません。途中話しは大きく反れ、些か専門外の事をえらそうに述べてしまいましたが、私の家造りに対する考え方は「個」を重視しすぎず、「和」や「協」を中心に置いた家を造る事だと確信しています。

これからさらに進む少子高齢化・各家族化時代に向けて、家族が家族であることを、無意識に意識できる家造りを目指し、責任ある仕事をして行きたいと思います.最後までお付き合いしていただき誠にありがとうございます。今後弊社をぜひご利用して頂けますよう。心よりお願い申しあげ、私の話を終わらせていただきます。

ありがとうございました。 

株式会社山崎ハウス工業 代表取締役 山崎又男

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